中日ドラゴンズの永久欠番は西沢道夫氏の「15」と服部受弘氏の「10」
中日ドラゴンズは球団創設85周年を超えており、巨人・阪神に次いで老舗球団で戦前から存在しています。
そんな歴史ある中日ドラゴンズの永久欠番は西沢 道夫(にしざわ みちお)選手の「15」と服部 受弘(はっとり つぐひろ)選手の「15」になります。
星野・落合ドラゴンズ時代ではでは400勝の山本昌投手や前人未到400セーブを達成した岩瀬仁紀選手が活躍しましたが、彼らは永久欠番の称号を得ていません。
今回の記事では永久欠番を獲得した2名の選手の解説のほか、永久欠番の条件を徹底的に解説していきます。
永久欠番とはどんな背番号
そもそも永久欠番とはどんな番号なのでしょうか?
私は中日ドラゴンズのファンです。しかし、冒頭の両選手を詳しく知りません。
近年のプロ野球では永久欠番が発表されることは本当に少なくなりました。正直若い世代は永久欠番と聞いてもピンと来ていない方が大半だと思います。
プロ野球において「永久欠番」とは、そのチームにとって最も大きな活躍をした選手や球団やファンにとって偉大な功績を残した人を称えるための番号です。
中日ドラゴンズの永久欠番は「10」と「15」でその番号は中日ドラゴンズが存続する限り、どの選手も番号をつけることができません。
テレビやネットニュースでも永久欠番が取り上げられることは少なく、今では馴染みが薄い番号となっているのが実情だと思います。
永久欠番「15」の西沢 道夫氏はどんな選手だった?
項目 | 詳細 |
---|---|
氏名 | 西沢 道夫(にしざわ みちお) |
生年月日 | 1921年9月1日 |
没年月日 | 1977年12月18日(享年56歳) |
出身地 | 東京府荏原郡大崎町(現:東京都品川区) |
身長・体重 | 182 cm、73 kg |
投打 | 右投右打 |
ポジション | 投手、内野手(一塁手) |
プロ入り | 1937年、名古屋軍(現:中日ドラゴンズ)に入団 |
主な所属球団 | 名古屋軍、中部日本軍、ゴールドスター、金星スターズ、中日ドラゴンズ |
背番号 | 0(1937年)、5(1938年 – 1943年)、15(1946年 – 1958年) |
主なタイトル | 首位打者(1952年)、打点王(1952年) |
表彰 | ベストナイン(一塁手部門、1950年、1952年、1953年、1954年) |
監督歴 | 中日ドラゴンズ(1964年 – 1967年) |
殿堂入り | 1977年、競技者表彰で野球殿堂入り |
中日ドラゴンズ前身の名古屋軍にテスト生として入団し、中日ドラゴンズの永久欠番になるほどの成績を残しました。
試合の初出場は驚異の16歳!
戦前の時代を感じますね。182センチの身長は当時でもかなり大柄な方だったと推測されます。
プロ野球公式では最年少の出場記録で、現代のプロ野球の制度なら二度と破られることはないでしょう。
西沢選手は投手として19歳として20勝を記録し、打者としても29歳で46本塁打の成績を残しました。
大谷選手を彷彿とさせる成績ですね。
西沢選手が永久欠番に選ばれた理由は「投手」「打者」の両方で卓越した成績を残したことが最大の理由になると思います。
1954年には西沢選手の圧倒的な成績によりリーグ優勝と日本一を経験しています。
現在の大谷選手並の成績を残さなければ、西沢選手には記録では並べないので、永久欠番の難易度は桁違いです。
永久欠番「10」の服部 受弘氏はどんな選手だった?
項目 | 詳細 |
---|---|
氏名 | 服部 受弘(はっとり つぐひろ) |
生年月日 | 1920年1月23日 |
没年月日 | 1991年12月5日(享年71歳) |
出身地 | 愛知県岡崎市 |
身長・体重 | 170cm、63kg |
投打 | 右投右打 |
ポジション | 捕手、投手、内野手、外野手 |
経歴 | 旧制愛知県岡崎中学校 → 日本大学 → 名古屋軍(現・中日ドラゴンズ) |
主な成績 | 1941年 本塁打王、通算112勝65敗、防御率2.81、打率.239、本塁打33本 |
背番号 | 10(中日ドラゴンズの永久欠番) |
続いてご紹介するのは服部 受弘(はっとり つぐひろ)氏です。
こちらの方も私はあまり存じていませんでした。しかし、調べてみると中日ドラゴンズの礎を築いた選手だということがわかりました。
服部氏も戦前に中日ドラゴンズの前身である「名古屋軍」に入団し、投打共に圧倒的な成績を残しました。特に投手としての成績が突出しています。
服部氏のキャリアハイになります。
投手としてのキャリアハイ(1949年)
- 登板試合数: 44試合
- 勝利数: 24勝
- 敗戦数: 10敗
- 防御率: 3.00
- 完投数: 24試合
- 完封数: 3試合
- 奪三振数: 105個
特に1949年は最高の成績でした。
特に完投数が凄まじく、鉄人ぶりが想像できます。
近年のプロ野球では完投・完封は怪我のリスクから少なくなってきているので、服部氏のような成績は異次元レベルでしょう。
打者としてのキャリアハイ(1941年)
- 打率: .194
- 本塁打数 8本(リーグトップ、本塁打王)
- 打点: 27打点
- OPS.581
1941年は太平洋戦争が開戦し、日本では野球どころではなくなりました。
中日ドラゴンズの永久欠番の条件
中日ドラゴンズの永久欠番の条件はわかりません。
しかし、岩瀬仁紀投手や山本昌投手が永久欠番になっていないことから、成績ではなく球団創設期にリーグ優勝または日本一になった主力選手に与えられるものだと考えています。
当時は岩瀬選手や山本昌選手の背番号をなぜ永久欠番にしないのかと疑問の声も少なくありませんでしたが、あっさりと「34」「13」を別の選手に渡しました。
高木守道氏の背番号も永久欠番にはしなかったので、現在の中日ドラゴンズでプレーしている選手の背番号が永久欠番になることは0に等しいと思います。
私の勉強不足でもありますが、西沢 道夫氏と服部 受弘氏のことをほとんど知らなかったので、もう少し永久欠番についてメディアで露出してほしいですね。